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人新世の『沈黙の春』

人新世の『沈黙の春』

『沈黙の春』(原題Silent Spring)が出版されたのは1962年。今年2022年はそれから60年になります。

 「古典」とは時代を超えて読み継がれ、さまざまな理解や解釈を可能にしてきた作品のことだとするならば、『沈黙の春』は、この60年の間に「環境問題の古典」として評価されるに十分なほど、多くの人が読み継ぎ、語り継いできたものです。その読み方も、理解の仕方も、時代とともに変わってきたといえます。

 

 『沈黙の春』は、DDTをはじめとする農薬・殺虫剤が無制限に使用されるなら、自然の生態系を破壊し、自然の中に生きる生き物、さらには人間の健康にまで影響を及ぼすのではないかと告発したものでした。

1962年、『沈黙の春』が出版されるや、農薬・殺虫剤の使用規制をめぐる議論をよびおこし、やがて危険な農薬・殺虫剤の使用規制が行われることになりました。

 『沈黙の春』は、1964年、最初、『生と死の妙薬』とのタイトルで日本語訳されました。当時、日本でも農薬・殺虫剤は大量に使用されており、農薬研究者や農薬メーカー、農林行

政関係者など、いわば専門家に大きな衝撃を与えたものでした。

1970年代になると、『沈黙の春』は専門家にとどまらず、多くの市民が手にするようになりました。有吉佐和子の『複合汚染』が朝日新聞に連載され、その反響のなかで、安全な農産物を求める消費者の動きが目立ちはじめました。自然農法、無農薬栽培などへの関心がたかまるなか、生産者と消費者の交流がふかまり、「産直」活動も始まりました。

1974年、タイトルを改め、新潮文庫化された『沈黙の春』は、このような動きのなかで多くの読者を得ることになりました。

 

 1980年代になると、安全な食べ物を求める消費者の関心は、輸入食品の安全性に向けられました。アメリカから牛肉・オレンジの市場開放を求める動きがつよまるなかで、食品添加物の基準緩和の問題も焦点になりました。農薬・殺虫剤についても、「ポストハーベスト農薬」に象徴されるような輸入食品の残留問題が取り上げられました。

このなかで、1987年5月27日、レイチェル・カーソン生誕80年記念事業が企画実施され、レイチェル・カーソンと『沈黙の春』に目が向けられたのです。レイチェル・カーソン日本協会もその翌年、1988年5月27日に設立されました。

 

 1980年代後半から1990年代にかけて地球温暖化問題やフロンガスによるオゾン層破壊の問題など、地球環境問題が問題になりました。1990年4月のアースデイ、1992年の6月のリオでの地球サミットの開催など、地球環境問題をめぐって国際会議やイベントがあいつぐなかで、「地球規模で考え、地域から行動しよう」という市民運動がひろがります。

 このなかで、『沈黙の春』は、地球環境問題を語るうえで欠くことのできない基本的な視点を与えたものとして評価されるようになりました。そして、「21世紀を環境の世紀にしよう」との呼びかけの根拠になるアイデアを示すものとされたのです。

「私たちは、いまや分れ道にいる。だが、ロバート・フロストの有名な詩とは違って、どちらの道を選ぶべきか、いまさら迷うまでもない。長いあいだ旅をしてきた道は、すばらしい高速道路で、すごいスピードに酔うこともできるが、私たちはだまされているのだ。その行きつく先は、禍いであり、破滅だ。もう一つの道は、あまり、<人も行かない>が、この分れ道を行くときにこそ、私たちの住んでいるこの地球の安全を守れる、最後の、唯一のチャンスがあるといえよう。」

これはよく知られた『沈黙の春』第17章の冒頭の一節ですが、私たちの未来につながる道を選択せよとの問いかけはとても重いものがあるといえます。

 

 しかし、21世もすでに20年以上が経過し、実際には、残念なことに、ますます環境問題が深刻化し、人間の存続の危機ということさえ考えなければならなくなっているようです。

 このようななかで「人新世」という用語をよく見かけるようになりました。『人新世の「資本論」』の斎藤幸平は、「人新世」について「人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代」のことだと説明しています。

『沈黙の春』出版60年にあたって、「人新世」という時代認識のもと、『沈黙の春』を読み直してみることがあってもよいのではないでしょうか。

 

最近、ブックガイドを書くことになったギスリ・パルソン著『図説 人新世―環境破壊と気候変動の人類史』は「人新世」という用語の意味や、そのようによばれる現代の環境問題の現実について理解するうえでとてもよい文献のひとつです。

 ギスリ・バルソンは、「人新世」という用語について「人新世(アントロポセン、Anthropocene)は、「人」を意味する「Anthropo」と、一般に地質年代の「世」を表す接尾語「cene」を組み合わせた語だ」「人新世という概念は、当初は単なる地質学の学術用語として、つまり新たな地質年代に呼び名をつけ分類するための手段として考案されたものだった。しかし、人新世はそうした枠に閉じ込められることを拒み、今や、自然史と社会史の垣根を崩すテーマとなっている。人類はすべてを左右する要因になっただけでなく、地質の、つまり地球そのものの一部になった」と説明しています。

 「人新世」という用語が広まったのはこの10年ほどのことですが、この用語が使われるようになったのは、2000年のある会議で、オランダの化学者パウル・クルッツェンが「今はもう完新世ではない。われわれは人新世にいるのだ」と口走ったことがきっかけで、それ以後、急速にこの用語が広まり、いまや地質時代区分のひとつとして認めてはどうかということになっているのだというのです。

 

 ギスリ・バルソンによれば、「完新世の概念とは異なり、未来志向の人新世は、まだ地層に定着していないスパイク(注:「この時代に関連する地層の中の痕跡」という意味)を重視している。その意味で、人新世が地球科学の言説から逸脱したものであることは確かだろう。とはいえ、人類が地球の歴史に多くの痕跡を残してきたことは否定しようがない。その顕著な例が大量絶滅だ」といっています。

 「この時代に関連する地層の中の痕跡」ということについては、プラスチックや放射性物質をあげて説明している事例をよく見かけます。現在の人類に代わる未来の「人類」が、私たちが生きる現在の地層を掘り返したとき、プラスチックや放射性物質を見つけることになるのではないかというのですが、そうかもしれないなという気がします。

 地球環境問題のトップメニューである気候変動問題についても、例えば、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第6次報告書第一作業部会報告では「人間の影響が大気、海洋及び陸域を温暖化させてきたことは疑う余地がない」と断言するに至りました。

 

 私は、現代の環境問題について「20世紀文明の負の遺産」という視点から論じています。人新世という用語が広く使われるようになるなかで、「20世紀文明の負の遺産」というのが「人新世」とよばれるに至った時代に人類が作り出し、地球に影響を及ぼしてきたものと重なりあうのだろうと思っています。

立命館大学「現代環境論」講義テキストでは、以下のように記述しています。

 

地球の歴史と人類のあゆみを振り返ると、地球の歴史は46億年、生命の歴史は40億年、人類の歴史は400万ないし500万年といわれてきました。そして、現在の人類の誕生は10数万年前のこととされています。アフリカの南東部を出発点に、中近東地域を経由し、時間をかけて地球上全体にひろがっていったと考えられています。

この間に、さまざまな文明の興亡がありましたが、なかでも狩猟採集経済から農耕文明への進展は文明史的な転換とされています。環境問題を論ずる人の中には農耕の始まりが環境破壊の始まりだと指摘する人もあります。

農耕を開始したことで食料を確保し、定住することができたことはとても重要なことでした。人口は増加し、生活度も向上し、各地でさまざまな文明を築いていったのです。しかし、人口の増加に見合う食糧・資源の確保が困難になると、周辺の文明との衝突もさけられなかったのです。

人類の歴史のなかで「産業革命」はもうひとつの重要な転換点になりました。「産業革命」は蒸気機関の発明など「技術革命」という側面が強調されますが、化石燃料を大量に使用する文明を招いたという点で「エネルギー革命」という側面も見落とせないでしょう。また、農地から切り離された都市労働者が大量に生み出されたことにともなう「社会革命」という側面もありました。

このような「産業革命」を踏み台にしてむかえた20世紀文明の特徴は、

1 科学技術の発展

2 化石燃料の大量使用

3 大量生産・大量消費・大量廃棄

4 限界を越えた成長

5 人口爆発

6 グローバル化の進展

などの特徴をもっていました。そして、このような20世紀文明のもとで、人間の生産・消費・廃棄の活動は急速に規模が拡大し、豊かな暮らしが実現されるとともに、他方で、環境問題が顕在化する時代になったのです。

 

私が、このように「20世紀文明の負の遺産」という視点を持つようになったのは、『沈黙の春』を読み、語り継ぐなかでのことです。

『沈黙の春』の第2章の始まりに次のような一節があります。

「この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という二つのものが、たがいに力を及ぼしながら、生命の歴史を織りなしてきた。といっても、たいてい環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去ったときの流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものにすぎない。だが、20世紀というわずかのあいだに、人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。」

この一節には、レイチェル・カーソンの人間と自然の関係についてのとらえ方、20世紀という時代の時代認識がよく示されています。この文章は、これまでからも何度も引用してきたものですが、やはり多くのことを考えさせてくれる文章だといえます。このような視点や時代認識が、人新世という用語に示された視点や時代認識と通じ合うように思います。

このようななかでむかえる『沈黙の春』出版60年。レイチェル・カーソンの生涯や業績、『沈黙の春』の現代的意義などをあらためて論じていくうえで、人新世という概念や時代認識をふまえておくことが必要だと思っています。

 

人新世について、人間の活動が地質学的にみて画期をなしたといえるほどまで地球の生態系に影響を与えたという時代認識を示すものだと理解するならば、いま私たちに求められるのは20世紀文明の転換ということになるのでしょう。

また、その前提として、人間はえらいのだ、人間の都合で自然は自由に変えてもよいという認識を改め、人間と自然の関係のあるべき姿を見つけることが必要とされるかもしれません。

 このような思いをもって『沈黙の春』を手にするとき、実に多くのことを考えさせてくれるようです。

少しくどくなるかもしれませんが、人新世ということを意識した『沈黙の春』の読み方を考えるうえで役に立ちそうな文章を引用してみます(引用は新潮文庫版『沈黙の春』からです。ページ数も記しておきます)。

 

●いったいなんのために、こんな危険を冒しているのか――この時代の人はみんな気が狂ってしまったのではないか、と未来の歴史家は、現代をふりかえって、いぶかるかもしれない。(P20)

 

●これから生れてくる子供たち、そのまた子供たちは、何と言うだろうか。生命の支柱である自然の世界の安全を私たちが十分守らなかったことを、大目にみることはないだろう。(P26)

 

●植物は、錯綜した生命の網の目も一つで、草木と土、草木同士、草木と動物とのあいだには、それぞれ切っても切りはなせないつながりがある。もちろん私たち人間が、この世界をふみにじらなければならないようなことはある。だけど、よく考えたうえで、手を下さなければ・・・。忘れたころ、思わぬところで、いつどういう禍いをもたらさないともかぎらない。だが、いまこのような謙虚さなど、どこをさがしても見あたらない。(P87―88)

 

●自然を征服するのだ、としゃにむに進んできた私たち人間、進んできたあとをふりかえってみれば、見るも無残な破壊のあとばかり。自分たちが住んでいるこの大地をこわしているだけではない。私たちの仲間――いっしょに暮しているほかの生命にも、破壊の鋒先を向けてきた。(P116)

 

●生命あるものをこんなにひどい目にあわす行為を黙認しておきながら、人間として胸の張れるものはどこにいるであろう?(P136)

 

●静かに水をたたえる池に石を投げこんだときのように輪を描いてひろがっていく毒の波――石を投げこんだ者はだれか。死の連鎖をひき起した者はだれなのか。(P172)

 

●人間は自然界の動物と違う、といくら言い張ってみても、人間も自然の一部にすぎない。私たちの世界は、すみずみまで汚染している。人間だけ安全地帯へ逃げこめるだろうか。(P245)

 

●自然の均衡とは、不変の状態ではない。流動的で、時と場合に応じて有為転変していく。人間もまたその一部で、そのおかげをこうむることもあるが、また逆に――それもたいてい人間が差し出がましいことをするために、手いたい目にあうときもある。(P314)

 

●カナダの昆虫学者であるアルエットは、自分の人生観をいまから十年ばかりまえこのように言いあらわした――<私たちは、世界観をかえなければならない。人間がいちばん偉い、という態度を捨て去るべきだ。自然環境そのもののなかに、生物の個体数を制限する道があり手段がある場合が多いことを知らなければならない。そしてそれは人間が手を下すよりもはるかにむだなく行われている>。(P335)

 

●私たちの住んでいる地球は自分たち人間だけのものではない――この考えから出発する新しい、夢豊かな、創造的な努力には、<自分たちの扱っている相手は、生命あるものだ>という認識が終始光りかがやいている。(P381)

 

●<自然の征服>――これは、人間が得意になって考え出した勝手な文句にすぎない。生物学、哲学のいわゆるネアンデルタール時代にできた言葉だ。自然は、人間の生活に役立つために存在する、などと思いあがっていたのだ。(P381-382)

 

 いかがですか。これらの文章から、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で訴えようとしたことが伝わってくるように思います。

『沈黙の春』は、直接的にはDDTなどの農薬・殺虫剤が自然の生態系、さらに人間の健康まで影響を及ぼすことを警告したものですが、人間中心主義への反省を求め、人間と自然の関係を修復していこうと呼びかけたものでもあったといえます。そして、このようなメッセージは人新世といわれるこんにち、私たちが何を大事にしなければいけないのかを示しているといえるのではないでしょうか。私は、「20世紀というわずかのあいだに、人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている」とのべるレイチェル・カーソンの思いを正面からうけとめ、未来への指針をみつけだしたいと思います。

 もちろん現実に私たちが直面している環境問題について、たとえば気候変動問題にしても、プラスチック汚染の問題にしても、簡単に解決できるわけではないでしょう。しかし、問題解決にむけてなすべきことを可能なかぎり積みあげていきたいと思っています。

 

 さいごに、『沈黙の春』の「まえがき」の最後の部分を引用します。できれば声を出して読んでみてください。

 

「人間だけの世界ではない。動物も植物もいっしょにすんでいるのだ。その声は大きくなくても、戦いはいたるところで行われ、やがていつかは勝利がかれらの上にかがやくだろう。そして、私たち人間が、この地上の世界とまた和解するとき、狂気から覚めた健全な精神が光り出すであろう。(P10)

 

 

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