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『人新世の「資本論」』を読む

『人新世の「資本論」』を読む

 

斎藤幸平の著書『人新世の「資本論」』が出版されたのは2020年9月のこと、つまり1年前のことです。出版とともに話題書になり、新書部門のベストセラーとしてランキング入りし、「新書大賞」を受賞することになりました。NHKの講座「100分de名著」で著者が『資本論』を講じたこともあり、ちょっとした『資本論』ブームにもなりました。

私は以前から著者の論説が気になっていたこともあり、出版と同時に本著を購入しました。「SDGsは「大衆のアヘン」である」などの記述に面喰いながら一読しましたが、正しく理解できたかどうかわからなかったので、もう一度読み直し、「学習ノート」がわりに、以下のブックガイド記事を書きました。

まだ本書をお読みでない方は、このブックガイドでおおよそこんなことを論じているのだと理解してくださればと思います。

 

今回、『人新世の「資本論」』を読むにあたり、1 資本主義に挑む「脱成長」論、2 新たなマルクス像へのアプローチ、3 <コモン>の再生と管理、という指針を掲げました。

これにしたがって検討をはじめる前に、関連情報を整理しておきたいと思います。

 

 テキストは集英社新書、2020年9月22日第一刷を使用します。本書からの引用もここからの引用とします。なお、現在、市中書店には十三刷が出回っています。

 

著者についての基本情報は、本書の著者紹介記事によって確認してください。

 斎藤幸平(さいとう・こうへい) 1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は経済思想、社会思想。

Karl Marx’s  Ecosocialism :Capital,Nature,and the Unfinished Critique of Political Economy (邦訳『大洪水の前に』)によって、権威ある「ドイッチャー記念賞」を歴代最年少で受賞。同書は世界五カ国で刊行。編著に『未来への大分岐』など。

 

本書の目次を確認します。

はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である

第一章   気候変動と帝国的生活様式

第二章   気候ケインズ主義の限界

第三章   資本主義システムでの脱成長を撃つ

第四章   「人新世」のマルクス

第五章   加速主義という現実逃避

第六章   欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム

第七章   脱成長コミュニズムが世界を救う

第八章   気候正義という「梃子」

おわりに――歴史を終わらせないために

 

 検討の手順としては、まずテキストが何を論じているのかを要約紹介し、その後、私なりのコメントをしたいと思います。

 

 最初に、1 資本主義に挑む「脱成長」論、について取り上げます。

 

 本書は、気候変動問題に象徴されるような現代の環境危機を論ずるにあたり、「人新世」という用語を使いました。このことを通じて現代の環境危機の特質がはっきりとうかびあがり、また「人新世」という用語も広く知られるようになりました。現代の環境危機は、もはやひきかえすことができない「ポイント・オブ・ノーリターン」にもうすぐそこに迫っていると強調します。著者は、その原因を広く人間活動全般によるものとするのでは問題の解決はできない、現在、起きていることは、資本主義のグローバル化との関係を抜きには語れないというのです。

 著者は、人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる掠奪の対象とみなす、そのような社会システムが、無限の経済成長を目指せば、地球環境が危機的状況に陥るのは、いわば当然の帰結なのだといいます。

 また、著者の主張の一つが、「帝国的生活様式」という用語で示されるのですが、資本主義のグローバル化によって、グローバル・ノースの大量生産・大量消費の社会はグローバル・サウスの犠牲のうえに成り立っているという問題を指摘していることです。「帝国的生活様式」は、このような収奪や代償の転嫁なしには維持できないのです。

 資本主義が繰り返してきた収奪と負荷の外部化・転嫁をめぐって、技術的転嫁、空間的転嫁、時間的転嫁ということが示されます。

しかし、そうしたことがあっても、いまや地球の限界を超えてしまい、資本主義システムが崩壊し、混とんとした状態になるのか、別の安定した社会システムに置き換えられるのかという、資本主義の終焉に向けた「分岐」を迎えているというのです。

 

 著者は、このようななかで準備されているさまざまな対策について、それらが資本主義の本質的批判をふまえた対策になっているのか、「経済成長の罠」から抜け出すものになっているのかを検討します。

その結果、「緑の経済成長」をめざすというグリー・ニューディールには希望がもてない、経済成長と環境負荷のデカップリングというのも幻想でしかない、循環型経済が持続可能な社会を実現するかのような言説もミスリーディングであるときびしい評価を加えます。必要なのは、破局につながる経済成長ではなく、経済のスケールダウンとスローダウンである、というのです。ここに「脱成長」という選択肢が示されます。

 著者は、外部化と転嫁に依拠した資本主義にはグローバルな公正さを実現できないとし、このままいけば、資本主義が地球の表面を徹底的に変えてしまい、人類が生きられない環境になってしまう、環境危機に立ち向かい、経済成長を抑止する唯一の方法は、私たちの手で資本主義を止めて、脱成長型のポスト資本主義に向けて大転換することであるというのです。

 ここで示される「脱成長型のポスト資本主義」こそ、これ以後、議論されていくテーマなのです。

 著者は、資本主義の本質的特徴を維持したまま、再分配や持続可能性を重視した法律や政策によって、「脱成長」・「定常型経済」へ移行することはできない、「脱成長資本主義」はとても魅力的に聞こえるが、実現不可能な空想主義なのだといいます。脱成長を擁護したいなら、資本主義との折衷案では足りず、もっと困難な理論的・実践的課題に取り組まねばならない、歴史の分岐点においては、資本主義そのものに毅然とした態度で挑むべきなのである、というのです。

そして、労働を抜本的に変革し搾取と支配の階級的対立を乗り越え、自由、平等で、公正かつ持続可能な社会を打ち立てる、これこそが、新世代の脱成長論である、というのです。

 

 次に、2 新たなマルクス像へのアプローチ、について検討します。

 

 資本主義への本質的批判となれば、マルクス主義の出番ということになるでしょう。

 著者は、「資本主義を明確に批判し、脱成長社会への自発的移行を明示的に要求する、理論と実践が求められている。中途半端な解決策で、対策を先延ばしにする猶予はもうないのだ。それゆえ、新世代の脱成長論はもっとラディカルな資本主義批判を摂取する必要がある。そう、「コミュニズム」だ」として、カール・マルクスと脱成長を統合することの必然性を強調します。

その場合、『資本論』に代表されるマルクス理論をいかに現代に生かすのかということが問われるわけです。ここに、本書の最大のテーマが浮かび上がるのです。

 著者は、世間一般では、マルクス主義といえば、時代遅れで、かつ危険なものだと感じる読者も多いだろうが、世界に目を向けると、近年、マルクスの思想が再び大きな注目を浴びるようになっているといいます。

その場合、資本主義の矛盾が深まるにつれて、「資本主義以外の選択肢は存在しない」という「常識」にヒビが入り始めているとしたうえで、「脱成長型のポスト資本主義」への展望をマルクス理論に見出そうというわけです。その場合、「人新世」の環境危機を克服するためにふさわしいマルクス理論の新解釈がもとめられるということになります。

 

 このようにいう著者のマルクス理論の新解釈は、最晩年のマルクスの研究ノートに注目することによってなしえたことだという。「人新世」の危機に立ち向かうため、最晩年のマルクスの資本主義批判の洞察をより発展させ、未完の『資本論』を「脱成長コミュニズム」の理論化として引き継ぐような、大胆な新解釈に挑まなくてはならないのだ、というわけです。

著者によれば、マルクスの資本主義批判は、『資本論』第一巻刊行後の1868年以降に、続巻を完成させようとする苦闘のなかで、さらに深まっていった、いや、それどころか、理論的な大転換を遂げていったというのです。そして、私たちが「人新世」の環境危機を生き延びるためには、まさに、この晩期マルクスの思索からこそ学ぶべきものがあるのだ、というのです。

 著者は、若きマルクスの理論について「進歩史観」とよび、その特徴について「生産力至上主義」と「ヨーロッパ中心主義」という特徴があるといいます。そして、晩年のマルクスはこの考え方を捨てることになるのだというのです。

著者は、晩年のマルクスの「研究ノート」に注目し、『資本論』第1巻以降のエコロジー研究の深化をたどるなかで、マルクスが新しいビジョンを打ち立てるために絶対的に必要だったのが、エコロジー研究と非西欧・前資本主義社会の共同体研究だったとの結論にたどりつくのです。

 すなわち、マルクスは『資本論』を完成するためにも、エコロジカルな理論的転換を必要としたというわけです。マルクスは、人間が自然に働きかけ、さまざまなものを生産し、消費し、廃棄しながら、地球という惑星で生きている、この自然との循環的な相互作用に着目し、「人間と自然との物質代謝」について考察を進めていったというのです。

 また、マルクスは自然科学やエコロジーの研究にとりくむようになっただけでなく、非西欧や資本主義以前の共同体社会の研究にも大きなエネルギーを割くようになるのです。

このなかで、マルクスは、生産力至上主義に決別し、ヨーロッパ中心主義にも決別し、やがて進歩史観そのものから決別せざるをえないことになるのです。

 

 マルクスは、資本主義のもとでの生産力の上昇は、人類の解放をもたらすとは限らない、それどころか、生命の根源的な条件である自然との物質代謝を攪乱し、亀裂を生む、資本主義がもたらすものは、コミュニズムに向けた進歩ではない、むしろ社会の繁栄にとって不可欠な「自然の生命力」を破壊してしまうと考えるようになるのです。

 マルクスは、ここから「脱成長」に向かうのです。マルクスが求めていたのは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を<コモン>として持続可能に管理することであったというのです。

 著者は、マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだとし、進歩史観を捨てたマルクスは、共同体の持続可能性と定常型経済の原理を、自らの変革論に取り入れた結果、コミュニズムの理念は「生産力至上主義」とも「エコ社会主義」とも、まったく違ったものに転化した、それが、最晩年に到達した「脱成長コミュニズム」である、と結論づけるのです。                           

 

 つづいて、3 <コモン>の再生と管理、について取り上げることにします。

 

 本書では、<コモン>というのがキーワードのひとつです。

 著者は、近年進むマルクス再解釈の鍵となる概念のひとつが、<コモン>あるいは<共>と呼ばれる考えだ、といいます。

<コモン>とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す、というのです。そして、マルクスは、人々が生産手段だけでなく地球をも<コモン>として管理する社会をコミュニズムとして構想していたのである、というのです。

 著者は「マルクスの主張は明快である。コミュニズムは、無限の価値増殖を求めて地球を荒廃させる資本を打倒する。そして、地球全体を<コモン>として、みんなで管理しようというのである。マルクスは<コモン>が再建された社会を「アソシエーション」と呼んでいた」とのべています。

 

 マルクスの理論の中で「本源的蓄積論」という議論があります。一般的にはイングランドの「囲い込み」のことが話題になります。共有地から農民がしめ出され、資本集約度の高い大土地経営が形成される一方で、土地から切り離された農民が都市に流れ込み、賃労働者になっていくことによって初期の資本主義が実現していったとされているのです。

 著者は、この過程について、マルクスによれば、「本源的蓄積」とは、資本が<コモン>の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく過程のことを指す、つまり、資本主義はその発端から現在に至るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたのである、と説明します。コモンズの解体が資本主義を離陸させた、というのです。

入会地のような共有地は個人が自由に売買できる私的な所有物ではなく、社会全体で管理するものだった、ところが、囲い込みによって、このコモンズは徹底的に解体され、排他的な私的所有に転換されねばならなかったのです。

土地だけでなく、河川(水力)もコモンズであったのですが、同じように「本源的蓄積」期にコモンズとしては解体されていったのです。

 

著者のマルクス理解によれば、このように解体されていった<コモン>を取り戻すのがコミュニズムだというのです。資本主義を乗り越えて「ラディカルな潤沢さ」を21世紀に実現するのが<コモン>だというのです。

 <コモン>を通じて人々は、市場にも、国家にも依存しない形で、社会における生産活動の水平的共同管理を広げていくことができる、その結果、これまで貨幣によって利用機会が制限されていた希少な財やサービスを、潤沢なものに転化していくというのです。

そして、ここに「脱成長型コミュニズム」への展望があるというわけです。

貧困、差別、不平等を作り出す資本主義に抗して「誰も取り残されない」という観点から、<コモン>の復権が社会全体を変えていくひとつの基礎になることができるのは間違いないとして、 本書でも、その事例がいろいろ紹介されます。

 著者は、その中から、脱成長型コミュニズムの構想を示します。その構想の柱として、つぎの

ような5項目が掲げられます。

1 使用価値経済への転換、

2 労働時間の短縮、

3 画一的な分業の廃止、

4 生産過程の民主化、

5 エッセンシャル・ワークの重視

 

著者は、晩年のマルクスの理論的到達点に学ぶ中で、このような脱成長型コミュニズムへの展望を語るのです。そして、この道を進むことによって現代の環境危機を乗り越えることが出来るのだというのです。

 著者は、つぎのように述べています。

 「気候危機の時代には、政策の転換よりもさらにもう一歩進んで、社会システムの転換を志す必要がある。資本主義から抜け出し、脱成長を実現することで得られる「ラディカルな潤沢さ」こそ、晩期マルクスからの真の対案である。」

「「人新世」とは、資本主義が生み出した人工物、つまり負荷や矛盾が地球を覆った時代だと説明した。ただ、資本主義が地球を壊しているという意味では、今の時代を「人新世」ではなく、「資本新世」と呼ぶのが正しいのかもしれない。けれども、人々が力を合わせて連帯し、資本の専制から、この地球という唯一の故郷を守ることができたなら、そのときには、肯定的にその新しい時代を「人新世」と呼べるようになるだろう。本書は、その未来に向けた一筋の光を探り当てるために、資本について徹底的に分析した「人新世の資本論」である。」

 

これまで本書の要約紹介をしてきました。基本的に最初に掲げた3つの指針にしたがって、著者の主張の幹になる部分をたどったつもりです。

著者の主張を明確にするために、積極的に評価する、批判の対象にするという違いはあるにせよ、数多くの研究者の著作や論説について紹介し論評している部分については、今回、ほとんどふれませんでした。

このほか、私の力量が足りず、大事な点でこぼれ落ちた部分もあるかもしれませんが、とりあえず著者が主張の概要を見てきたつもりです。いかがでしょうか。

いずれにせよ、本書はたいへん刺激的な本です。ですから、本書は、出版から1年たっても、話題書としてロングセラーの地位を継続しているのでしょう。

みなさまがご自分で本書を手にしていただき、お気づきの点があればお教えいただければ幸いです。

私のコメント

以下、著者の主張をそのまま受け入れてよいか、なお悩みながらのことですが、私の感想をのべてみます。

 

●現代の環境危機について「人新世」という用語で表現したことはとても新鮮で、アピール度はとても高かったと思います。そして、現代の環境危機が資本主義のグローバル化のもとで進行したことをふまえるならば、資本主義への本質的批判を抜きに解決できないとの指摘も説得力があるといえます。

●今日では、環境危機のみならず、格差・貧困など、様々な点から「ポスト資本主義」の構想が論じられるに至っています。本書の場合、「環境危機に立ち向かい、経済成長を抑制する唯一の方法は、私たちの手で資本主義を止めて、脱成長型のポスト資本主義にむけて大転換することなのである」としています。しかし、その場合、「脱成長」という用語の意味するところを正確につかむことがとても大事なのですが、それがなかなかむつかしいように思われます。

●著者の主張では、経済の成長にこだわるのではなく、バランスのとれた繁栄、豊かさの実現を基準に考えようとすることになるようです。「GDPに必ずしも反映されない、人々の繁栄や生活の質に重きを置く、量(成長)から質(発展)への転換だ。プラネタリー・バウンダリーに注意を払いつつ、経済格差の収縮、社会保障の拡充、余暇の増大を重視する経済モデルに転換しよう」というものだというのですが、いかがでしょうか。

●著者の主張では、資本主義のもとでの成長抑制とか、マイナス成長を主張する議論は認められません。また、技術革新の力で持続可能な経済成長を持続するなかで問題解決をはかるという主張についても当然否定されるのです。著者が「気候ケインズ主義」とよぶ「グリーン・ニューディール」などの議論も、「緑の経済成長」を目指すもので、評価されません。どう考えたらよいでしょうか。

●著者は、資本主義に代わるものとして、「脱成長型コミュニズム」の構想を示しています。また、そこに至る道すじとして<コモン>の復権が必要だと論じます。とても面白い議論だと思います。著者は、その事例として、再生可能エネルギーの「<市民>営化」をめざす地産地消型の市民発電、ワーカーズ・コープによる経済民主化の動き、協同組合による参加型社会、バルセロナに見られる気候正義に向かう地域経済モデル、国境を越えて連帯する自治体の動き、などが紹介されます。ああ、これならできる、ということがいくつも出てきそうです。しかし、はたしてこれらの動きをもって資本主義を止め、新しい社会に転換できるかどうかとなると、まだまだよくわからないままでいます。これから議論が必要な部分かと思っています。

●著者は、「脱成長型コミュニズム」の議論の土台にマルクスを持ち出します。それも晩年のマルクスです。著者は、晩年のマルクスの「研究ノート」などの研究から、マルクスが「生産力至上主義」や「ヨーロッパ中心主義」に決別し、新しいコミュニズムの基礎を構築したといいます。このマルクスの新解釈が本書のテーマである「脱成長型コミュニズム」論の根本にあるわけですが、さあ、そのような解釈が成り立つのかどうかとなると、判断材料が足りないように思います。あたらしく編集されたマルクス・エンゲルス全集が世に出て、多くの人の手により検証されることを待たねばならないことかもしれません。とはいえ、とても興味深いマルクスの新解釈が示されたと思います。著者の今後の論説に注意していきたいと思います。

●私のような立場ではわからないままでいることなのですが、著者のマルクスの新解釈が、これまでのマルクス研究者のみなさんの目にどのようにうつっているのか、ということです。著者のマルクス解釈は、新解釈というように、従来のマルクスの理解の枠組みを否定しているわけですから、そんな解釈はありえないなどの反応があってもおかしくないと思うのですが、あまりそのような反応がみられないように思います。

●著者は『大洪水の前に』に集約されたような、晩年のマルクスについての研究を積み上げていますので、著者の主張の根拠を確認していくことができます。新しいマルクス・エンゲルス全集の関連部分が出てこれば、その成果も確認できることでしょう。また、前の号で『人新世の「資本論」』関連書籍の紹介をしましたが、本書に導かれるように関連書が世に出て、本書の主張を補っています。こういうなかで、本書のマルクスの新解釈を否定する立場の議論があれば聞いてみたいと思っているのですが、いかがでしょうか。もし手がかりがあるようでしたら、お教えいただきたいと思います。

●私だけでなく、多くの読者が感じていることでしょうが、「SDGは大衆のアヘンである」とか、IPCCの「知的お遊び」という言い方はとても気になる表現です。SDGsの議論にしても、IPCCの議論にしても、著者の立場でなくとも、不十分な点があることは否定できないことでしょう。とくにSDGsについては著者が指摘するような「アリバイ作り」になっているような事例もあるとは思います。しかし、環境危機から抜け出すための活動を実際に広げていくためには、どこが、何が不十分なのかを丁寧に説明してもらうことが必要だったのではないでしょうか。

 

 今回は、私の『人新世の「資本論」』学習ノートを掲載させていただきました。みなさまにとってお役にたったかどうか、気になるところですが、私自身は、ひきつづき関連書も手にして学習を深め、また、みなさまにお伝えすべきことはお伝えしていきたいと思っています。

 

 

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