岩波新書の「絶対名著」改版企画がはじまっている。長い間読み継がれてきた定番というべき新書について改版し、見やすく、読みやすくし、今後も読み継がれるようにしようというものだ。宇沢弘文著『自動車の社会的費用』などに続き、今回、本書も改版された。
私は、1980年代以降、さまざまな環境問題に関わってきたが、発想の基盤として常に大事にしてきたのはレイチェル・カーソンの『沈黙の春』と、水俣病問題であった。蛍光管をはじめとする水銀使用製品の適正処理の課題にこだわってきたのも、まさにその延長線上にあることだといえる。
私の水俣病問題との関わりは、水俣病京都訴訟の支援活動にはじまる。水俣から関西に移り住んだ患者さんが水俣病患者として認定してもらいたいとの裁判が京都地裁ではじまり、原告の話を聞き、水俣現地を訪問するなかで、水俣病問題について少しずつ理解を深めていくことになるのだが、その際、本書は基本テキストとして何度も手にしてきたものだ。
今回、改版されたものを手にし、あらためて本書は「絶対名著」として今後も読み継がれるべきものだと思った。
本書から学ぶ論点をいくつかひろってみる。
・水俣病の原因物質をめぐってさまざまな学説が出される中で、チッソ水俣工場から放流されていた工場排水にふくまれていたメチル水銀化合物こそが原因物質であることがつきとめられた。
・脳性小児麻痺とされてきた子どもたちが胎盤経由の水俣病(胎児性水俣病)であることが認定されていくが、この点では著者の役割がとても大きかった。
・水俣病の認定基準について、ハンター=ラッセル症候群が完全にそろわなくても水俣病として認定できるという認識のもとに、水俣病と認定されないまま放置されてきた患者に救済の道をひらいていった。そのために著者の水俣病診断の原則をまとめあげた。
・ストックホルムの「人間環境会議」に参加し、世界にむかって水俣病問題を訴えた。これはその後の世界各地の水銀中毒事件との交流につながるものである。
・水俣病裁判のなかで、著者は神経精神科の医学者として「水俣病の重篤さは、身体的な障害に加えて、精神面での大きな障害にある」ことを強調した。「水俣病とは環境汚染を通じて、過去、現在、将来にわたってメチル水銀によってもたらされた健康破壊のすべて」であり、「現在、医学のレベルで把握しているのは実に氷山の一角である」「水俣病はいくつもの障害が重なっているので、そのトータルでみようとするとますます困難である」と証言していることも注目したい。
・著者は、「今後に残された課題」として「水俣病は決して終わっていない。ここには、社会的にも医学的にも今から新しく手をつけねばならない問題が山積みされている。この人類初の巨大な環境汚染の結末こそ人類の未来を象徴する。そして、その結末、人類の未来は私たち現代に生きるものの手にゆだねられている」とのべている。
本書を読み進むにつれ、著者が患者に懸命に向き合い、常に医学とは何かと反省しながら、真摯に問題解決に当たっていることがわかるのではないか。胎児性水俣病の調査に際し、患者家族、とくに母親から「先生方から何度も何度も診てもらうのはありがたいが、先生たちはただ診るだけで、治療もしないし病名をつけてくれないではないですか」といった激しい言葉をうけながらも、認定への道をきりひらいていく著者の努力には胸打たれるところがある。
本書の初版は1972年11月に出ており、すでに50年近い歳月が流れている。本書は、石牟礼道子著『苦海浄土』とあわせて、水俣病問題の理解を深めるための必読文献といえるのではないか。 (岩波新書 2021年3月刊)