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書評:石牟礼道子著『苦海浄土』

石牟礼道子著『苦海浄土 わが水俣病

1956年5月1日、5歳と2歳の姉妹が原因不明の奇病にかかったという報告が水俣保健所に行われた。これが、水俣病の公式確認とされている。

報告をうけて市役所、保健所、病院などが調査にはいるや、実に同じような症状を訴える患者が集団発生していたのである。また、その数年前から多数のネコの死亡や原因不明の奇病が発生していたことも明らかになった。

水俣病は、チッソの工場廃液にふくまれた有機水銀によって汚染された魚介類を食べ続けたことが原因で、人々の健康が破壊されたものである。しかし、それが明らかにされるまでにあまりに多くの時間が費やされ、その間に被害は拡大した。

『苦海浄土』は、このような「日本の公害の原点」とされる水俣病の悲惨な実態を書き綴った書として類の無いものである。水俣病の患者は歩行障害、言語障害、知覚障害、全身けいれん、狂躁状態など有機水銀の影響をうけて苦しみ、その生活基盤も、さらには人間としての尊厳までもが破壊されたのである。その実態を、山中九平少年、その姉のさつき、並崎仙助老人など、患者に寄り添い描き出す。なかでも坂上ゆきの事例、江津野杢太郎少年の事例などはあまりにも強烈な印象を残すものである。

『苦海浄土』は、「わたくしは・・」という著者の行動記録、著者の目でとらえた描写の部分と、「ゆき女きき書」といわれるような、患者やその家族たちからの「聞き書き」部分、それに各種報告書・資料などが交錯する、特異なスタイルをとっている。

「聞き書き」の手法は石牟礼文学の真骨頂ともいうべきものである。

なかでも「天の魚」に繰り広げられる杢太郎少年の祖父の「あねさん、」とくりかえされる水俣言葉での語りは、忘れることのできない、あまりにつらいものである。

「なむあみだぶつさえとなえれば、ほとけさまのきっと極楽につれていって、この世の苦労はぜんぶち忘れさすちゅうが、あねさん、わしども夫婦は、なむあみだぶつ唱えはするがこの世に、この杢をうっちょいて、自分どもだけ、極楽につれていたてもらうわけにゃ、ゆかんとでござす。わしゃ、つろうござす。」

美しい水俣の海に夫婦で舟をこぎ出し、漁の合間に舟の上で飯を炊きながら、釣ったばかりの鯛の刺身で焼酎を味わう場面も、つい声を出して読みたくなる部分である。

「かかよい、飯炊け、おるが刺身とる。ちゅうわけで、かかは米とぐ海の水で。沖のうつくしか潮で炊いた米の飯の、どげんうまかもんか、あねさんあんた食うたことのあるかな。そりゃ、うもうござすばい、ほんのり色のついて。かすかな潮の風味のして。」

講談社文庫巻末の渡辺京二の解説「石牟礼道子の世界」は『苦海浄土』を理解するうえでぜひとも熟読したいものであるが、著者の「聞き書き」の手法をめぐって、「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」という著者の言葉を紹介し、「患者の言い表していない思いを言葉として書く資格を持っているというのは、実におそるべき自信である。石牟礼道子巫女説などはこういうところから出てくるのかもしれない」と、『苦海浄土』の「方法的秘密」について論じている。

『苦海浄土』は、当初『海と空のあいだに』という題で雑誌「熊本風土記」に連載され、それをもとに1969年に単行本化され、1972年に講談社文庫になった。

このあと、『苦海浄土』は、患者救済を求めたチッソ本社の座り込みをふくめた「水俣病闘争」を記録する第二部、第三部へ書き継がれていくことになる。

 

(講談社文庫 1972年刊、2004年に新装版 667円プラス税)   <原  強>

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